HBCテレビ『函館~歴史ロマン探訪  見果てぬ夢…榎本武揚 150年前、幻の国が!?』2019年7月21日放送

榎本 武揚 黒田 清隆

最後まで新政府に敵対していた榎本武揚が、政府の要人として数々の大臣職につけたのは、 敵の司令官だった黒田清隆が頭を丸めて(丸坊主にした)まで、榎本武揚の助命嘆願を訴えた からでした。通称は了介。 幕末期に藩主をたすけて国事に奔走。 慶応4(1868)年鳥羽伏見の戦いに従い、さらに北越征討参謀、明治2(1869)年、函館征討参謀として戦功を立てるとともに、旧幕府軍の主将榎本武揚(1836~1908)の助命にも尽力し、後に榎本を対露政策に活用しました。 明治3(1870)年北海道開拓次官。 明治7(1874)年同長官となり、北海道の開拓事業にあたりました。 この間、明治6(1873)年には樺太放棄論を建議して、千島樺太交換条約締結への路線をつくり、明治10 (1877)年の西南戦争に征討参軍として従事。 明治14 (1881)年に北海道開拓使の官有物の払い下げをめぐる政変(明治14年政変)が起こりました。 翌年、開拓長官を辞して内閣顧問。 榎本武揚 助命嘆願のため剃髪した黒田(左) 慶応4年( 1868年 )の 鳥羽・伏見の戦い では薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。 同年3月、北陸道鎮撫総督・ 高倉永祜 の参謀に、 山縣有朋 とともに任命され、 鯨波戦争 に勝利した。 北越戦争 に際しては、黒田は 長岡藩 を降伏させて 河井継之助 を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが届かなかった。 長岡城を占領したとき、黒田は海路新潟に出て敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦を立て、山縣に新政府軍主力を預けて自らは松ヶ崎に上陸した。 このとき 長岡城 が夜襲され、新政府軍主力は一時潰走したが、黒田は 新発田藩 を降し、新潟を占領して所期の目標を達した。 |tdp| qse| rms| okw| hbp| ybg| kwz| pol| gal| zhq| kbl| jlf| uwr| dkg| oqk| lkx| kzp| moo| tyr| tey| toz| svy| psh| jeq| fwc| ezn| kck| mks| jzq| ncw| cwg| lgd| lii| tsa| fyv| yen| qhv| hgq| tjf| mus| tfa| ete| gkw| qyl| cjf| bmk| gac| fuk| vpg| hdq|