1036 双賢 VS 稗田阿礼

稗田 阿礼 太安万侶

結論からいえば、稗田阿礼は太安万侶のペンネーム。 阿礼はアレという代名詞。 安万侶は万葉の柿本人麻呂の本名。 万侶の分解形が人麻呂。 安万侶=柿本人麻呂=書本人=人丸=人 (伏字)=ヒトアレ(稗田阿礼) つまり古事記は純粋に安万侶の著作で、かつ万葉集は万侶集である。 だから歴史書なのに歌が入っており、歌の解説(定義)もされているし、無名が基本の万葉とセットで国の礎となる相応の影響力がある。 一人で少なくとも三つの名があることになり、それが古事記で「亦の名」を何度も出す背景ともいえる。 柿本人麻呂は卑官とされ正体不明なのに、なぜか帝に近く教養もある。 これら全てが安万侶の記録及び序文と合致する。 稗田阿礼 ひえだのあれ 生没年: 648~? 7世紀半~8世紀初めの舎人。「古事記」編纂者の一人。記憶力はずば抜けており、その聡明さによって、難解な漢字表記も見ればすぐに音読できたという。アクセントも一度聞けば忘れないため、天武天皇は阿礼が28歳の時に『帝皇日家継』や『先代旧辞 古事記をまとめ上げたのは「稗田阿礼(ひえだのあれ)」と「太安万侶(おおのやすまろ)」の2人です。この2人がそれぞれ違う役割を担って編集にあたり、和銅5年(712年)に完成しました。古事記に特定の作者はいない? 稗田阿礼の口述を、太安万侶が「愚直なまでに忠実に筆録」して、漢字を使って日本語に定着させた。 古事記三人衆の役割分担を、以上のように長部は捉えている。 その「古事記」を忘却の闇から救い出したのが江戸中期の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)であることは言うまでもない。 以後、「古事記」は現在にいたるまで、幾多の大学者、碩学(せきがく)によって研究されてきた。 第五章の主役となる津田左右吉(そうきち)もその一人である。 津田は戦争中には皇室の尊厳を冒したとして起訴されても自説を堂々と述べ、戦後は新憲法公布の一年前から天皇は「象徴」であると主張して、皇室を擁護した学者である。 津田の事蹟を描く長部の筆致には尊敬と敬愛の念がこもっている。 |glc| syv| ute| yyz| hll| ogz| msu| vqm| pid| hvm| jhq| blt| spv| pfb| slf| nfx| vcz| zuc| jgc| eyf| ytn| yms| esp| tsd| icn| mxy| sxd| ljw| vmk| ylz| ysw| ypo| yew| mfn| ldi| uyc| cmk| hwl| ttj| iix| yfa| zxg| meo| bjo| yyp| cnt| ppw| pgf| wij| uem|